入れ替え戦第1戦は、遠慮なく言うが、ウェズレイがいた時間といなかった時間の2つの時間に分けられるゲームだった。
ウェズレイがピッチにいた時間。広島は2失点し、それ以上の失点を奪われる可能性は決して小さくなかった。
ウェズレイがいなかった時間。広島は1得点し、京都にはまったくチャンスを作らせないほど一方的に押し込んだ。
推測でしかないが、いなかった時間が長ければもう1点入っていたのではないだろうか。
それほど、非常に明暗がくっきりしていた。
どんな選手でも特徴と欠点があり、チームはそれぞれの欠点を補い、特徴を結び合わせて戦っていかないといけない。
誰にも、足を引っ張る不得手なプレーがあり、貢献できる得意なプレーがあるものだ。
チーム戦術というのは、それら選手の個性を監督が見定めて、組み立てられていく。
ペトロヴィッチのサッカーのもっとも大きな基本戦術は、「走ること」。運動量を絶やさないことだ。
これは就任当初から今まで、まったく変わっていない絶対無二の決まり事である。
よって、選手それぞれの個性の中に欠点はあるとしても、「走れない」はペトロヴィッチのサッカーをする限り、あってはならないんだ。
この日のウェズレイは、コンディションの影響もあるのだろうが、走れていなかった。
ウェズレイの運動量をカバーするほど、周りが走れてもいなかった。
それでもピッチにたっている価値があるほどの、貢献もしていなかった。
その結果、広島の目指すサッカーはできなかった。
ウェズレイを責めようとは思わない。あれは本来のウェズレイの姿ではないだけだ。
今までウェズレイの偉大さは目の前でたくさん見てきた。
責めるべきは、ウェズレイを起用したペトロヴィッチだろう。
「7人を代えることができたなら、私は7人代えたかった」とペトロヴィッチは試合後に話し、先発メンバーの選択ミスを認めた。
最終節G大阪戦。若手選手たちは非常にいいプレーをした。
走ること、戦うことの大事さを僕らに改めてわからせてくれた。
それだけに、あの姿勢を4日前に目にしただけに、この日の僕の失望感と苛立ちは、向かうところをなく暴れまわった。
第1戦のピッチに立った選手たちが、戦わなかったとは思わない。
走る気がなかったとは思わないし、気持ちがなかったとも思わない。そこに文句をつけるつもりはさらさらない。
だが、ピッチで表現できたかどうかということが大事なのだ。
第1戦の選手たちはできず、最終戦の選手たちはできた。
この結果は紛れもない事実であり、それが第1戦の結果を左右したと僕は思っている。
第2戦、広島は勝たなければいけなくなった。
2点差以上、もしくは1点差なら1-0の勝利しかない。
この条件は、それほど厳しい条件ではないと思う。
時間は90分残されているし、選手のクオリティが上回っていることは第1戦でも確認できた。
だが、いつも言っている「自分たちのサッカーができれば」という条件がつく。
負けたくせにこんなことを言うのもあれだが、広島のサッカーができれば、京都には勝てる。
リーグ戦でゼロに抑えて勝ったゲームは1つしかないので、2点を取る必要はあるが、できると思う。
第2戦は、まず先発メンバーの選択が大きなポイントだ。
なにが吉とでて、なにが凶とでるかは、やってみないとわからない。
だが、もう取り返せるゲームは残っておらず、交代枠は3つしかない。
そして、1分も無駄にはできない。選択を間違うことは許されない。
ペトロヴィッチの選択が、広島の命運を握っていると言ってもいい。
どういう選択をすべきかは、今まで結果が雄弁に語っている。
走れて戦える選手をピッチに送り出すべきだ。